衣錦坊は「三坊」の中の第一坊であり、古い名は通潮巷です。清の『榕城考古略』によれば、宋の時「陸薀と陸藻二人の兄弟がここに住んでおり、坊の名は禄錦でした。その後、王益祥が江東提刑を務めることになり、坊の名は衣錦に変わりました。宋の「禄錦」も、明の「衣錦」も、いずれもこの坊にかつて外で出仕し、高官までのぼり、そして、今は故郷に錦を飾る人がいることを語っています。そのため、坊の名も過去の通潮から変わってきました。ところで、通潮と呼ばれたのは、ここは水の多い所で、福州にある西湖と南湖の潮がこの坊の溝まで通じるからです。
この坊にある第16号の屋敷は清嘉慶年間の進士であった鄭鵬程の住宅です。その中、最も特色に見られるのは、「衣錦坊水榭戯台」です。これは一階の木造台であり、下に清い水のある池が建てられ、中間では中庭が隔てられ、その正面は屋根裏部屋です。ここで芝居を見ると、水の清さと、風の清さ、また音の清さが楽しめます。確かに音響学の原理と美学の価値を兼ねています。これは現在福州市にある唯一の現存した水辺のあずまやステージです。
文儒坊は第二坊で、文儒坊という名は宋の時代にすでにありました。『榕城考古略』によれば、この巷は「もともと儒林といい、宋の祭酒を務めた鄭穆という人がここに住んだため、今の名にしました。鄭穆は国監祭酒を務め、国家最高学府の重要な役人です。その官位が従三位にあたりました。明の時倭人を対抗した名将であった張経も、清の名将であり、福建提督や台湾総兵を兼ねた甘国宝も、ここに住んでいました。清の時代、全国で名高い「民進士」の家族であった陳承襲の旧居もこの坊にあります。陳承襲の長男は清宣統皇帝の先生を務めた陳宝琛でした。清の有名な詩人、「石遗室诗话」の作者である陳衍の旧居もここにあります。それは南向きの大きな屋敷であり、中に光華閣があります。陳衍の住宅の隣は、現代有名な法学家柯凌漢教授のお住まいです。この坊は歴代に文儒輩出で名を馳せています。
光禄坊は「三坊」のうちの第三坊にあたります。かつては「玉尺山」と「闽山」と呼ばれ、福州の「三つの山の宝物」の一つとされてきました。かつて、光禄坊には「法祥院」があったため、俗称「闽山保福寺」とも呼ばれてきました。光禄坊は多くの名人が住んでいたところとしても知られています。明末には、万歴年間の挙人、画家の林有台、提学孫昌裔、学政許豸とその子許友、許賓、そして孫許遇と曾孫許鼎、許均、玄孫許良臣、許荩臣があり、すべで詩人や書画家です。光禄坊では「光禄吟台」が一番有名であり、池、台、亭、石、花、木には魅力があります。その上、宋代から清代までの「摩崖題刻」が多く保存されていて、1961年の福州市で最初の文物保護単位として認定されています。
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