大雁塔
市の南4キロにある。唐の三代目の高宗李治が皇太子のとき、生母文徳皇后の冥福を祈り648年に建てた慈恩寺の境内に立つ塔で、西安のシンボルである。当時の規模はかなり大きかったが、唐代末期に戦乱のため焼き払われ、現存するのは当時の十分の一に過ぎない。
652年にインドから帰った玄奘三蔵法師の願いにより、境内に大雁塔を建て経典を保存することにした。塔は煉瓦でできており、当初は五層の塔であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。しかし、戦乱などで上部が崩壊し、現在は七層で、高さは64メートルしかない。内部の木製のらせん階段を登ると、最上部まで行くことができる。
三蔵法師
『西遊記』は唐の玄奘三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に、さまざまの苦難にあいながら天竺(インド)へ行って仏典を持って帰る話です。
子供のころ誰にも親しまれた冒険物語です。
仏教には3200もの経典があるといわれますが、その中でもっとも有名なお経が「般若心経」です。
色即是空 空即是色。ギャーテーギャーテー ハラソーギャーテー
一度くらいは聞かれた方もおられることでしょう。
この般若心経は、紀元1~2世紀の頃インドで生まれました。
ですから、原典は古代インド語のサンスクリット、すなわち梵語です。
この梵語のお経を漢字に翻訳したのが、中国の僧 玄奘三蔵です。
玄奘三蔵(602~664)、色白で美男子で秀才。
13才で出家し、629年の秋、26才で西安市(昔の長安)からインドへ無許可で出国します。生年と出国の時期については諸説があり、2~3年程度の幅があります。仏教を学びましたがあきたらず、国禁を犯して28才でインド留学へと向かいます。
命がけの求法の旅、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、パミール高原、カラコルム峠を越え、やっとの思いでインドの仏教大学ナーランダに到着。
長安出発のとき40人の同行者は、途中の猛獣山崩れ、急流などで死者続出し、2年後には玄奘ただ1人という苛酷な旅でした。
偉人といわれる人には色々な伝説が残っていますが、玄奘にもいくつかあります。
旅の始めの頃、ある寺にいた時インドから来た老僧がハンセン病で苦しんでいた。
玄奘の弟子たちは皆逃げだし、老僧1人で病床に伏せていた。
そこで玄奘は手厚く看病し、薬をすすめ食事一切の世話をする。
このインド僧は感謝して1巻の経典を授ける。
玄奘はこの経典を道中のお守りとした。
玄奘帰国後この経典を漢訳したのが現在の「般若心経」です。
時を経て、その経典が敦煌の石室から発見され、その序文に次のような伝説が記されていました。
インド僧に会ったのちに、玄奘が中インドのナーランダ寺に着いたら、なんとその病僧がそこにいるではないか。
驚く玄奘にその僧は、~われ観世音菩薩なり~、と告げて空に消え去った。
今でも般若心経が、旅行のお守りのお経ともいわれる所以です。
三蔵法師は経、律、論に精通している僧侶に付ける敬称です。ときには三蔵と略される場合もあります。そして三蔵を玄奘の固有名詞的に使うこともあります。
ですから三蔵法師は他にもいるのですが、一般に三蔵法師といえば玄奘三蔵を指すように、玄奘は中国仏教の歴史の中でもっとも代表的な翻訳僧です。
あしかけ17年の旅を終え、多くの経典を持ちかえった玄奘は、皇帝の庇護のもと多数の仏典を翻訳しました。
主なものは仏舎利150粒、仏像8体、経典657部です。インドから経典を運んだ僧侶はたくさんいます。名前が明確な人だけでも150人程といわれていますが、玄奘三蔵法師は質、量ともに記録的なものです。また旅行中に記録した地理のようすや風俗、天文、数学、医学的な分野のものまで含まれています。
63才で亡くなられた時、天地は色を変じ、鳥獣は哀しげに鳴いたといい、遺体は77日経っても少しも変わらず、異臭もしなかったということです。
葬儀には、送る人100余万人、その夜墓前に泊まる人3万余人ともいわれています。
案内
所在地:西安市南郊外
開館時間:8:00~18:10
休館日:なし
電話:029-85217932
交通:タクシー又は観光バス