五丈原は三国時代に諸葛亮が兵士を率いて魏と対戦した北伐の戦場で、陝西省宝鶏市岐山県蔡家坂鎮に位置しています。 高さ20数メートルの高台にあり、北に渭水を望みます。
ここは、三国時代、諸葛孔明が最後に戦った戦場です。 諸葛孔明が劉備軍を率いて魏に挑むこと五回があります。今回は秦嶺山脈を越えての進軍でした。 迎え撃つのは魏の大将軍・司馬仲達で河を挟んでのにらみ合いが長く続きました。 結局、諸葛孔明はこの戦いで勝利を勝ち取ることはできず、病に倒れ帰らぬ人となりました。 丘の上には孔明を祀った諸葛亮廟があり、廟堂や孔明の衣冠塚を見ることができます。
諸葛廟(武侯祠とも呼ばれる)は五丈原で最も多くの人に知られている観光名所で、中には扁額、石碑、壁画、像などがあり。外にも「豁落城」、「諸葛鍋」、「碁盤山」、「諸葛泉」、「諸葛田」、「盤盤道」、「魏延城」、「古葫盧峪」などの遺跡が数多く存在しています。
諸葛孔明は身を粉にして尽くし、後の人々は彼の功績を記念するため、唐の初期に「忠烈武候祠」を建てました。、その後諸葛亮廟とも呼ばれるようになりました。毎年の2月20日(古代の暦によっての日にち)に記念活動が行われて、多くの人がここに集まって、賑やかです。諸葛廟は前後二つの部分からなっています。前は正門、鐘鼓楼、献殿(拝殿)、八卦亭、正殿があり、後ろは落星亭、碑廊、諸葛亮の衣冠塚があります。
正門は南側にあって北向きで、上には扁額が掛かり「五丈原 諸葛亮」と書いてあります。上の字は書道の大家である舒同氏によって書き記されて、筆さばきが非常に雄健です。正門の西側には直径が70cmもある槐があり、百年の歴史を持っているそうです。この槐は一本の幹に三本の枝が生え、お互いに絡み合っています。特に西側の三本の枝は絡み合って一本になって、劉備、関羽、張飛の義兄弟の絆を表していると後世の人々が考えたので、「結義槐」と名付けられました。魏、蜀、呉の三国を表しているという説もあります。
献殿両側の壁には、「三絶碑」と呼ばれる岳飛が書き残した「出師表」が刻まれています。「三絶碑」は40枚の石板からなっていて、内容が真摯で、人の心を打っていて、世にも希な絶品となっています。そのほか、「出師表」は南宋の英雄岳飛に書き記されたもので、名太祖朱元璋に「本人のようで、正々堂々だ」と褒められ、世にも珍しい宝物で、これがもう一つの絶妙なところと称されています。そして、石碑の字は中国北西地方に名を馳せる清朝末期の彫刻の大家である樊登雲によって刻まれたもので、岳飛の書と全く同じで、前の二つの絶倫な特徴と共に三絶と呼ばれています。
献殿と正殿の間には「八卦庁」があり、その後ろには諸葛正殿が建てられています。現存する建築は清朝の光緒時代に修復され、中には仏壇があって、諸葛亮の像が安置されており、青い道服を着、手に羽扇を持ち、穏やかな表情をして、いきいきして真に迫っています。仏壇の上には「将相師表」、「出将入相」、「北定中原」という三つの扁額が掛かっています。正殿両側には関興、張苞の像、両わきの殿には姜維、楊儀の像が安置されています。
廟の後部は柏と竹の庭園で、一年中春のようで美しく、中には諸葛亮の衣冠塚が安置され、周りは碑の長廊に囲まれ、文官と武官が両側に仕えて、静かで趣があります。庭園の中央部には落星亭があり、中には「落星石」が供えてあり、史書によると、この落星石は諸葛亮が世を去る時空から落ちた将星です。
諸葛亮の本陣跡と言われている所で、今でも半メートルの壁が残り、南北の長さは約250メートル、東西の幅は約100メートルとなっています。地元の人はここを「豁落城」という名を付けました。
豁落城の南に位置する秦嶺山には、一つの平らな石があり、その上には碁盤の線が見えます。諸葛亮もここで碁を打ったことがあるので、碁盤山と呼ばれるようになりました。
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