曹操の墓はすなわち安陽高陵で、河南省安陽市安豊卿西高穴村に位置し、昔曹操の王都である邺北城の西側12キロ離れたところにあります。
歴史記録によりますと曹操の葬式は素朴で、何年か後、墓の上の祭殿も壊れました。死体に添えて埋葬する物には金玉器もなく、墓の盗掘者もあまり興味がありませんでした。それに墓の上には土の丘もなく、植木もなくて、時間が経つにつれて曹操の墓の所在地も分からなくなりました。
考古学的経緯
1922年河北省磁県の農民崔老栄はある昔の墓を見つけて、その墓碑には曹操に関する内容が記載してありました。その墓碑は地元政府に持ち込みました。邯鄲市の考古学者はこの墓碑を手がかりとして詳しく確認しましたが、結果的あまり信頼性の高い証拠が見つかりませんでした。
2009年高陵での考古発掘により河南省安陽市安豊卿西高穴村の曹魏墓は曹操の墓であると中国考古業界が認定しました。2009年12月27日中国国家文物局も河南省安陽の曹魏墓は曹操の墓であると発表しました。
2010年6月11日、安陽曹操高陵は「2009年中国全国十大考古新発見」の一番に選出されました。
2013年5月、安陽高陵は第七代目中国全国重点文物保護単位に認定されました。
2013年6月、曹操高陵及び邺城遺跡は国家文物局と財政部が実施した重大遺跡保護「十二五(第十二番目の5年間)」計画に入りました。
本物?偽者?どちらでしょうか。
曹操の墓は本物かどうかまだ疑われていましたが、考古学の専門家は何回も認証して、墓の形、構造及び副葬品の時代の特徴から判断して、東漢晩期の墓であると確認出来ました。
それに歴史文献の記録と合わせて、この墓の主は中国歴史上有名な政治家、軍事家、文学者である魏武王曹操で、この墓は文献が記録してある高陵で間違いないと宣言しました。
以下の根拠で真偽を判定
- この墓の規模は大きくて、総長は60mぐらいもあって、レンガで出来た墓の室の形や構造は発掘された既存の漢と魏の時代の王爵と侯爵レベルの墓と類似で、曹操の魏王という身分と合っています。それに墓の上には土の丘もなくて、文献に記載された曹操の墓に関する内容「基盤が高くて、丘なし、植木なし」との内容も合っています。
- 副葬として発掘された器や石画なども漢魏時代の特徴と合っています。
- 墓の位置も歴史文献や発掘された鲁潜の墓碑銘に記載された内容と完全に合っています。
- 葬式は素朴にするようと曹操の主張も記載されていました。今際の際「死んだ後の服は日頃よく着ていた服でよい、副葬品に金玉や宝物は一切なし」と命じたそうです。
発掘された墓の規模は小さくないですが、内装は簡単で、壁画も見られていなくて、とても素朴な墓で、文献内容と合っています。副葬となった兵器と石枕なども曹操がよく使っていた物であると認証出来ました。細工がよい玉の工芸品も曹操が日常使っていたもののはずです。
- 「魏武王」の文字が刻んである石碑と石枕は、最もこの墓の主は魏武王曹操であるとの証拠です。
- 墓の中で発掘された男性の遺骨も大体60歳ぐらいと専門家が認定しました。これも曹操が亡くなった年の66歳と合っています。曹操の遺骨で間違いないはずです。
出土品
この墓は何回も盗掘されましたが、まだすこし重要な副葬品が残っています。200個ぐらいの器が発掘されました。材質も金、銀、銅、鉄、玉、石、漆器、陶器、雲母など色々あります。器の中には銅の帯鈎、鉄の鎧、鉄の剣、玉の珠、水晶の珠、瑪瑙の珠、石亀、石壁、石枕、石碑などが入っていました。
2019年7月に、東京国立博物館と九州国立博物館で、特別展「三国志」が開かれます。曹操の墓「曹操高陵」の出土品も展示されます。
三国志人物
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