杜甫陵園は河南省巩義市市区西北およそ6キロメートルのところで、康店郷村西の邙嶺に位置しています。霊園は北側にあり南に向いて、総面積が2.27万平方メートルです。建築は主に大門楼、杜甫彫像、二重亭、詩聖碑林、杜甫墓、吟詩亭、望郷亭、草亭、献殿などの建物から組み立てられます。墓地には土の墓は三つあります。杜甫の墓は西で、長男である宗文、次男である宗武の墓は東で順番に並び、当地の住民によって「聖人の三墓」と呼ばれます。
墓は、高さが10メートル、周囲の長さがおよそ72メートルで、じょうごの形にします。墓の前に石碑を二枚立てられ、高さが約2メートルです。前の石碑は楷書で「唐杜少陵先生之墓」を書かれ、後ろのは「杜少陵墓」を書かれています。霊園には草花、樹木は3000本も植えられ、松とイブキが互いに照り映えて、冬も夏も緑にする;建物が簡潔で、雄大で荘重にし、邙嶺の輝いている真珠になってきました。1987年3月、「鄭州市級文物保護単位」と認定されました。
杜甫(西暦712-770年)は、字を子美といい、号が「少陵野老」です。中国唐代偉大的な現実主義の詩人で、世界の文化名人だと認められます。唐睿宗太極元年正月、巩県(今河南省巩義市)南瑤湾に生まれました。小さいから勉強好きで、知識欲が旺盛でした。高い政治理想を持っていたが、官途が順調に進まないで、能力も発揮することもできませんでした。そのため、生活が貧しいので、最下層の庶民の状況を理解するようになりました。相次いで長安、華州、同谷、成都などの異郷に住んだことがあり、困窮して流浪しました。唐大暦五年(770年)、杜甫は家族と蜀地を出る途中、湖南省洞庭湖畔に病気でなくなり、埋葬費用はないので、岳州(今湖南岳陽)に埋められました。元和八年(813年)、孫の杜嗣業によって、その墓は巩県康店邙嶺に移されました。
杜甫は普遍的な意義を持つ社会題材を選択することを上手にし、社会矛盾を大胆的に暴き、政治の腐敗を反映し、国家の前途を憂慮し、貧しい庶民にここらからの同情を与えました。杜甫の詩作は「唐代が開元の繁栄していた時代から衰微、分裂するようになった」という歴史過程を展示したので、「史詩」とも誉められています。言語は精錬で、風格は多様で、中国古代詩歌現実主義のピークだと認められ、前朝を受けて後朝へと展開する働きをしました。『兵車行』、『春望』、『茅屋為秋風所破歌』、「三吏」、「三別」など代表作は広く語り伝えられています。杜甫は後世に「詩聖」と尊称されています。