約4000年前、天津の地域は海から現れ、沖積平野になりました。隋の時代に京杭大運河が修築され、三会海口という南運河と北運河の合流点(現在の金鋼橋三岔河口)が、天津最初の発祥地だと思われています。唐の時代に芦台(天津の東北部に位置している古い行政都市)に天日製塩場が設置されました。元の時代には、ここは既に水路で食糧を中継輸送する中心地になりました。
明建文二年(1400年)、北京に駐留していた朱棣藩王は皇位を奪うため、大運河を通じて南下しました。この後、朱棣は順調に永楽皇帝になり、ここからの軍隊遠征に際し、1404年12月23日に初めてここを天津と名付けました。清順治九年(1652年)になると、ここで民政、塩輸送、税収、軍事など一連の拠点部門が設置されました。
清時代の後期になると、天津は直属総督の駐在地として、李鴻章、袁世凱らが外務運動を促進して北洋勢力を発展する主な基地となりました。第2次アヘン戦争で敗北により、1860年、天津はイギリス、フランス連合軍に占領され、やむなく開港を余儀なくされました。イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、ベルギー、イタリア、ロシア、日本は相次いでここに租界を設置しました。1900年7月、八国連合軍が天津を攻撃し、天津は陥落して占領されました。1901年、八国連合軍からなる天津政府は城壁を取り壊すという命令を下しました。
民国初年、民国総統の黎元洪と清時代最後の皇帝の溥儀を含める大勢の在野官僚、在野政治家と清時代の旧臣は天津租界に避難し、反抗を企んでいました。1928年6月、国民革命党が天津を占領した後、南京国民政府は「天津特別市」を設置しました。1930年6月、天津特別市は南京国民政府行政院直轄の天津市に変更しました。11月、河北省の省都は北平(現在の北京)から天津に移転されたので、天津直轄市は河北省直轄市になりました。1935年6月、河北省の省都は保定に変更されたので、天津は 再び 直轄市になりました。
1948年11月29日、中国人民解放軍東北野戦軍と華北軍区第二、第三兵団と地方武装一部は北平、天津、張家口地区に国民党軍と戦略的勝敗に重要な決戦(すなわち「平津戦役」)がありました。1949年1月17日、天津の全体が解放されました。
1949~1958年2月、北京市と天津市は河北省内の中央直轄市でした。1958年2月、全国人民代表大会の決議により、天津を河北省に合併することになりましたので、1967年1月、天津は、 再度 直轄市に変更され現在に至っています。