深せん市は1673年間の都市としての歴史があります。そして、約6700年以前の新石器時代中期には先住民が深圳で生活していました。
「深圳」という地名は1410年(明永楽八年)史書に最初に登場します。客家方言では田畑の溝は「圳」と呼ばれ、この地域は川や沼が多い所なので、さらに村の傍らには深い溝があるから、このように命名されました。夏、商時期の深圳は百越部族(解説参照)の支族とされる南越部族の居住地でもありました。
(解説参照):百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
秦始皇時代
紀元前214年、秦始皇が中国を統一した時、嶺南地区に南海、桂林、象郡の三郡が設置された際に、深圳は南海郡に属していました。西暦331年(東晋咸和六年)、宝安、海豊、興寧などの6県を管轄する郡として東官郡を設置し、範囲は現在の珠江デルタ及び恵州、潮州一帯に相当しました。その時の宝安県は現在の東莞市、深圳市及び香港特別行政区を管轄しており、西暦590年(隋開皇十年)、東官郡は廃置され、宝安県は南海郡に編入され郡の地方政府が深圳の南頭地区に設置されました。757年(唐至徳二年)、宝安県は東莞県に改名され、地方政府が東莞へ移され南頭に屯門軍鎮(鎮の名前)が設置されました。
宋代~清代
宋代になると深圳は南方海上交易の重要な拠点となり、また製塩業や香料で繁栄し、元代には真珠の産地として名を知られました。更に1394年(明洪武二十七年)、現在の深圳市内に東莞守御千戸所並びに大鵬守御千戸所が設置されました。
清末になると南京条約や北京条約により香港島及び九龍半島をイギリスが租借するようになり新安県が分割されると同時に、香港との国境の街としての歴史が始まりました。中華民国時期に再び宝安県に改称されましたが、中華人民共和国の成立後も、その名称をそのまま使用していました。
現代
1979年11月、広東省委員会は深圳市を地区一級の省轄市に昇格させ、1980年8月26日に深圳市は経済特区に指定され、なお、1981年3月副省級市に昇格しました。1988年11月、国務院により深圳市は省級経済管理を認められています。2004年に深圳市は、地方の街ではなく、まさしく中核都市となりました。