大同は歴史上、中国北方の中心的な都市で、「三代の京華、二朝の重鎮」という名があります。大同は昔から軍事上の重鎮であるとともに、戦略上の要衝で、ここでかつて大小を含む千回以上の戦争がありました。大同の東にある馬鋪山は漢の劉邦と匈奴との七日七夜の戦いの戦場跡です。金沙灘(今朔州市に編入)は楊家軍の死闘の激戦地です。
紀元前3世紀:趙の武霊王は林胡、楼煩などの異民族を制圧し、長城を築き、雲中、雁門、代郡を置きました。秦の始皇帝は戎狄を追い払うために、大同の城の西に武周塞を築きました。紀元4世紀末:黄河以北の地をほとんど制覇した鮮卑族の拓跋部は、平城に都を定め、宮殿を営み、寺院を建て、長城を築き、石窟を作り、その後96年にわたって7人の王が治めました。大同は当時の北方中国の政治上、経済上、軍事上、文化上、仏教上の中心となり、最初の最盛期に入ったのです。
それから1500年間、大同は、北魏の首都、辽金の副都、元の西京、明の藩鎮、清の重鎮になったのです。時代の移り変わりの中、幾多の栄枯盛衰を経て、「大同の軍備は天下一」と言われるようになったのです。 1277年:イタリアの冒険家マルコポーロは大同を訪れました。その時、フビライは南宋を滅ぼして中国を統一しました。長年の戦乱から逃れ得た大同は再び栄えました。マルコポーロは「壮大で美しい都市」と絶賛しました。
1372年:朱元璋13番目の子、朱桂は北魏の平城旧跡に雲中城を建てました。今日の大同古町です。その規模と独特さで北方中国では珍しい建物となっています。1438-1571年:明代になると、大同に馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と、絹織物などの商品とが交換されました。長城一帯の生産力が解放され、大同は、モンゴル地域と中原地域の物資輸送における中継地点と貿易都市として重要な役割を果たしました。
近代になっても、大同でのバーター貿易および通貨貿易は依然盛んで、それに魅せられて全国から大同に多くの商人が集まりました。