大連の名前は、「大連湾」が根源です。20世紀に入り、大連湾の西岸に都市が形成され、その後「大連」と名付けられました。大連には長い歴史があります。考古学発掘から大連の人口流動が分かります。遠い古代時期、「廟後山人」と「金牛山人」が北から大連地域へ来まして、その中の多くの人達は中部の山岳地帯に定居し、動植物の狩りと採集の生活を始めました。一方、北上した山東半島の人達は、多く島あるいは沿海地区に定居し、漁業を行いました。その後、河谷と平地地帯の発展に伴い、農耕と牧畜業が主たる生業となってきました。当時の大連にとって、山東半島からの影響はますます大きくなり、文明特徴は明らかに山東半島文明と類似しています。当時の大連地域は人口が多くないが、豊富な海洋資源と便利な海運条件に多様の自然形態を加え、生産力水準が山東半島に追いつくほど発達していました。
6000年前、中国人の祖先は大連地区を開拓しました。戦国時代の燕昭王はここに「遼東郡」を設置した以来、秦漢時代まで大連地区はすべて遼東郡の管轄区域に属しました。唐の初期、大連地区は「安東都護府」の管轄区域でした。遼の時代の大連地区は「東京遼陽府」の管轄区域に属していました。大連地区は魏晋の時代は「三山」と呼ばれ、唐の時代は「三山浦」、明清の時代は「三山海口」、「青泥洼口」と呼ばれました。19世紀の80年代に入り、清政府が現在の大連湾の北岸に港を築き)、砲台を築き、水雷大隊を設け、やっと小さな自治体が出来ました。1897年、ロシア人が大連という都市を建設始め、当時のロシア人設計技師はパリの都市建設図を参考し、アジアで再び広場を中心とした都市を作りたかったのです。その設計技師が中国の大連に来て、この町に「ダルニ」と名付けました。「遥かに遠い都市」の意味であり、モスクワとサンクトペテルブルグから遠く離れるところを意味しました。その後、「ダルニ」という名前が現在中国語の「大連」になりました。
旧満州国遺跡訪問の旅-鉄道利用(8泊9日)
北京, 大連, 瀋陽, 長春, ハルビン, チチハル, 満州里, ハイラル
東北の都市を5箇所訪問、近代史ファン必見!旧満州時代の遺跡を訪ねます。