重慶は有名な歴史的文化的都市であります。2万余年前の旧石器時代、すでに人々が住んでいました。新石器時代に入ると、密集している村落が形成しました。ここで住んでいました夷、濮、苴、奴、賓、共などの民族、重慶の深い歴史文化を造りました。約三、四千年前の夏商周の時に、重慶を中心としていた地区は強大な奴隷制の部族連合が成立しており、巴(バ)と称されます。
伝説によると、夏(か)の禹王は華夏(古代の中国)を九つの州に分け、梁州の管轄地区には「巴」があります。甲骨文の中にも「巴国」に関することが記録されています。「巴」から「重慶」まで、名前は歴史とともにたびたび変更してきました。周慎靚王(周朝の第36代王)五年(紀元前316年)に、巴国はに秦に滅びられ、巴郡になりました。
始皇帝は二十六年(紀元前221年)に全国を三十六の郡に分けて、巴郡その一つでした。漢時代になると、巴郡が江州と称されました。南北朝時代に相次いで荊州、益州、巴州、楚州と改名しました。隋文帝元年(581年)に、渝水(今の嘉陵江)に廻られるので、楚州が渝州と呼ばれるようになりました。これが重慶の略称「渝」の由来です。
宋徽宗崇寧元年(1102年)、渝の人――趙谂が反乱を起こしました。当時の朝廷は「渝」は「変」(変わる、裏切る)の意があると考え、「渝州」を「恭州」に改名しました。宋孝宗淳熙十六年(1189年)正月に、皇太子趙淳が恭王に封じられ、二月に帝位に即位しました。重なる喜びから、恭州が重慶府と命名しました。重慶と名づけられて以来、すでに八百年余でした。秦時代から、各時代もここで郡、州、路、道、府などの行政機構を設置したことがあります。
辛亥革命が発生した後、1921年に重慶で商業管理部が設置されました。1929年に重慶市政府が成立しました。1935年5月5日に、中国国民党により、重慶は直轄市になりました。日中戦争が始まると、国民政府は重慶に移しました。1937年11月に仮の首都とされ、1940年に副首都にされました。古代の「巴国」の首都の成立、元の時代の末期明玉珍(農民反乱軍の領袖の一人)が建国した「大夏」の都の成立とともに、重慶は三回も国の首都になりました。
1949年から1954年まで、重慶は直轄市に設置されました。1954年に四川省に属していました。1996年に重慶は万県市、涪陵市と黔江エリアを代わって管理することになり、1997年に、重慶は正式に直轄市となりました。