長沙は湖南省の省都で、昔は「潭州」と称される楚漢文明と湖湘文化の起源で、「中国第一陣歴史文化名城」として三千年もの燦爛な古城文明史をもっています。
長沙の名は3000年ほど前、貢ぎ物であった「長沙スッポン」という話について『逸周書•王会』の中に初めて出てきました。長沙には約2400年の城の歴史があります。春秋戦国時代に建て始められ楚国に属していました。楚が王になった時、黔中郡が置かれ、長沙がここに属しました。
秦始皇は中国を統一した後の紀元前223年、元楚国黔中郡の東南部で秦三十六郡の一つとして長沙郡を設置しました。それ以降、長沙は中国統一の政治地図に入れられ行政区域として初めて史書に登場しました。
秦が滅亡し劉邦が帝位についた後、紀元前202年に前漢建国功労者である呉芮が長沙王となり、元秦の長沙郡で臨湘県を都とする長沙国が建てられました。26年(建武二年)、後漢の皇帝劉秀遥は前漢末代の長沙王であった劉舜の子、劉興に長沙王を命じ、再び長沙国をつくりました。しかし37年に長沙国を廃止し、長沙郡と改められました。唐の武徳三年(621年)に長沙郡を潭州へ改名し、元の至元十四年(1274年)に潭州を潭州路へと変更しましたが、文宗の天暦二年にまた新たに天臨路と改称しました。元の至正二十一年(1364年)今度は朱元璋が天臨路を潭州府に名を変え、明の洪武五年(1372年)には潭州府を長沙府へと改名しました。
長い歴史の中で長沙は繁栄し続けていましたが長い間、不安定の状態でした。それにもかかわらず教育センターによって名声を博し、全国文化教育事業で最も発展した地域のひとつとなり、とりわけ岳麓書院が有名です。
民国二年(1913年)に長沙府は廃止され、1933年に長沙市となり、湖南省の省都として現在に至っています。