内モンゴル自治区の区都であるフホホトは、長い歴史を持つ塞外の古城です。モンゴル語の「フホホト」が青い都市を意味していることに因み、「青城」と呼ばれています。また、歴史上、召廟(モンゴル族ラマ教の寺院)が多くあることで、「召城」とも言われています。西暦前306年、趙武霊王は、陰山の麓に万里の長城を修築し、雲中郡(古代の行政区域)を設立しました。その旧跡は現在のフホホト市西南托克托県の古城コンミューンの所在地にあります。
西漢時代、漢武帝は河套(発音:ヘタオ)地区に軍市(軍隊駐屯地の近くに位置する市場)を設置、現在に至っています。フホホト市東方面の郊外に位置する塔布托村には、西漢時代の土城遺跡が残っています。隋唐時代、フホホトの辺りは、突厥人の活動範囲でした。唐太宗貞観時代、将軍の李責は、軍隊を率いて雲中郡に辿り着き、白道(現在ムカデダムと呼ばれ、フホホト市の北方面に位置する)で突厥を徹底的に打ち負かしました。
明隆慶六年(西暦1572年)、モンゴル土黙部領主である阿勒坦汗は、豊州辺りを中心とした遊牧活動を開始しました。間もなく、彼はモンゴル各地やゴビ砂漠の南部を統一しました。万歴九年(西暦1581年)、阿勒坦汗は、妻の三娘子と力を合わせて城を建て始めました。壁が青色のレンガで造られ、遠くから見ると、目に入るのは一面の青です。それ故に、「青城」と名付けられました。明の政府は「帰化」の名を賜りました。城が出来上がり間もなく、阿勒坦汗は世を去り、妻の三娘子はこの城の支配者になりました。彼女が明政府と仲良く付き合うことを主張したお陰で、モンゴル族と漢族は30年間戦争もなく平和に過ごしていました。万里の長城沿いの人たちは、この草原の女性ヒーローを記念するために、城を「三娘子城」と呼んだこともあります。
清朝初期、三娘子城は、清の軍隊に焼き打ちにされました。康熙三十三年(西暦1694年)、清の政府は新疆省内のモンゴル準ガル部を破るため、元の三娘子城の周りに壁を新たに造りました(元の壁より100m広くなった)。新しく造られた壁は東、南、西の三面を包みました。準ガル部との戦争に完全に勝利した後、前線から戻った軍隊を配置することと、さらに北西地区をコントールするために、新しい防衛城を造ることになり、「綏遠城」と名付けました。清朝末期、帰化と綏遠を合併させ、帰綏と呼ぶようになりました。
現在、フホホトはモンゴル族を自治民族とし、漢族、満族、回族、朝鮮族など36民族が集まって住んでいる塞外の名城となります。内モンゴル自治区の中で、最も発達している都市の一つです。