古隆中の入り口を入ると、「古隆中」という三文字が真ん中に彫刻されている三門石坊(三門四柱で石造りの記念門)が見えます。記念門の裏側には、諸葛亮を夏代、商代、周代の三代以来、賢人の第一人者と高く評価する「三代下一人」が刻まれています。また、石碑の両側には、「三顧頻煩天下計、両朝開済老臣心」(注1)という杜甫の詩句と、諸葛亮の名文『誡子書』から引用した「澹泊明志、寧静致遠」(注2)の八文字が彫刻されています。
小虹橋は諸葛亮が隆中に隠居していた時、外出するために必ず渡る橋です。劉備が二回目に草蘆を訪れた時、橋の近所で諸葛亮の義父である黄承彦に会ったところ、老人の着衣姿が非凡なさまを見ると、孔明と勘違いしてしまい、馬から下りて挨拶したというエピソードがあります。それで、小虹橋は世間に知られるようになりました。また、小虹橋について、清朝の王鋱は『隆中十咏』で「旧物を見て、劉備を思い出す人がいて、その人は曾て小虹橋の上に行ったようです」と紹介しています。
草蘆亭は六角形をしています。高くて青い柱、そして鮮やかで赤い煉瓦。東屋の中には、「草蘆」と力強くて優雅な書体で彫刻された石碑があります。この東屋は明の嘉靖19年(1540年に)立てられたものです。元々、諸葛亮が隆中に隠居した時期、ここを読書室にしていましたが、明の襄簡王朱見淑が風水を信じきっていたので、この旧跡を自分の陵墓としていました。李自成が一揆を行った際、陵墓が破壊されましたが、土墳だけが残っていました。後世の人は墓の隣に草蘆亭を修復し、賢人であった孔明に対する尊敬の意を捧げ忍んでいます。
三顧堂は諸葛亮草蘆の前に位置しています。こここそ劉備が三顧の礼を行い、諸葛亮が隆中で官吏登用試験で皇帝からの問いに対する答えを練った記念堂です。劉備が諸葛亮と面会した当時の家屋は既に明時代に破壊されていましたが、今の三顧堂は清代の康熙帝時期に再建されたものです。
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